数日前に、ひとつ大きな気づきがありました。
私はHSP気質があり、日常のさまざまな場面で細かなことによく気が付きます。
それ自体は長所でもありますが、これまでの私は、そこに感情まで強く結びつけていました。
「この人は今、しんどいだろうな」
「ここで何かしてあげないといけないのではないか」
そう考えることが習慣になっていました。
振り返ると、必要以上に人のことに気を遣いすぎていたのだと思います。
その結果、知らず知らずのうちに・・いつもどこかで疲れていました。
それぞれ大人で、それぞれの人生
あるとき、ふと気づきました。
それぞれが大人であり、それぞれの人生を生きている。
必要以上に気を遣わなくてもいいのではないか、と。
しかし、ここで葛藤が生まれました。
「自分はクリスチャンとして、それでいいのだろうか?」
「あるべき姿」に縛られていた自分
考えを深める中で、ひとつの答えに行き着きました。
「クリスチャンだから、こうあらなければならない」
そう思っていたこと自体が、実は少し傲慢だったのではないか、と。
それは無意識のうちに、
行いによって救いを得ようとしていた考えだったのかもしれません。
聖書にこうあります。
エペソ人への手紙 2章8〜9節
あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。
それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。
救いは行いによらず、めぐみによります。
関連個所として、
ヤコブの手紙 2章18節
しかし、「信仰はあるが行いがない」という人がいるでしょう。
それなら、行いのないあなたの信仰を、
私に見せてください。
私は、行いによって、私の信仰を見せます。
ずっと引っかかってました。
ある方がこの聖句を引用したからです。
しかしはっきりしました。
行いによる結果がその方の信仰であると。
救いは一方的な恵み
神の救いは、一方的な恵みであり、神の選びです。
それは自分の努力や行動によるものではありません。
人間がそれをもし考えているならそれは傲慢以外何物でもないと思います。
むしろ神様は、それぞれが自由に、楽しく、
その人らしく生きることを望んでおられるのだと、
ようやく腑に落ちました。
この気づきがあったからこそ、
今回この内容を記録として残そうと思いました。
利他ではなく、滅私になっていた
これまでの人間関係を振り返ると、
利他というよりも、滅私に近い状態だったように思います。
日本人、こういうの好きですもんね。
はい!私典型的な日本人でした~笑
その根底には、
「○○すべき」「こうしなければならない」
という思い込みがありました。
HSPの人は、相手の感情や状況を察する力があるため、
一見「気が付く人」に見られやすいと思います。
しかし実際には、自分を削りながら動いていることも少なくありません。
これは、あくまで私自身の経験から感じたことです。
これからは、自由に生きる
これからは遅ればせながら、
滅私ではなく、自分の好きなように、自由に生きていこうと思います。
誰かの人生を背負うのではなく、
自分の人生を大切にしながら生きる。
その先にこそ、自然な関わりや健全な優しさがあるのだと思います。
これが、私が最近気づいたことです。
2025年も残りわずかになりました。
今日という一日が、皆さんにとって穏やかな一日になりますように。