――疲れても、信仰は失われていなかった
今日は、不思議な一日でした。
忙しいわけではない。やるべきことも、決めていた日常も、きちんとこなしている。
それなのに、何か足りない感じがありました。
体は動いているのに、内側の力が湧いてこない。
燃料切れというより、向きがずれている感覚に近い。
そのとき、はっと思い出しました。
自分の人生のバックボーンに、「信仰がある」ということを。
信仰を失ったわけではありません。
ただ、現実の重さや日常の雑音に心を奪われて、
それが視界の端に追いやられていただけだったのだと思います。
そんな時に浮かんだのが、この言葉でした。
「まず神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
(マタイによる福音書 6章33節)
イザヤ書40章を通して聖書を読みました。
イザヤ書40章29〜31節
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
イザヤ書40章全体を読むと、
人が「これは盤石だ」と信じている権力や仕組みが、
神の前では、根を張る間もなく塵のように吹き払われていく姿が描かれています。
この世界は、イエス様もおっしゃっていますが、正直に言って理不尽なことが多いです。
正しさが必ず報われるとは限らない。
それでも――
ヨブの名を神がご存じであったように、
神は、神を信じる者一人ひとりを、確かに「知っておられる」。
この事実を、改めて心から感謝しました。
今日の自分を振り返ると、
やると決めていたことは、一応すべてできていました。
仕事も、用事も、最低限の責任も。
それなのに、やる気が湧かない。
体は動いているのに、内側の力が枯れているような感覚。
そんな時に、この40章29〜31節が、静かに胸に入ってきました。
聖書は、とても正直です。
若者でも疲れる。勇士でもつまずく。
信仰があっても、真面目に生きていても、疲れる時は疲れる。
でも、こう続きます。
「主に望みをおく人は、新たな力を得る。」
それは、自分を叱咤して奮い立たせる力ではありません。
どこか別のところから、静かに与えられる力。
「もっと頑張れ」ではなく、
「向きを戻しなさい」と言われているように感じました。
今日は飛べなくてもいい。
走れなくてもいい。
それでも、歩いても疲れないと約束してくださる主がおられる。
そのことを思い出せただけで、
今日はもう十分だったと思います。
忘れられない言葉
小学校の卒業文集に、恩師が残してくれた言葉があります。
54歳になった今でも、何度も読み返しています。
「途中で息切れして落っこちそうになったり、
羽が痛くなったりしたら、少し休んで、また飛ぶようにしなさい。
慌てて飛ぶ必要はありません。ゆっくり飛べばいいのです。」
人生は、一直線ではありません。
遠回りも、立ち止まりも、休憩もある。
「休んでいいんだ。」
そう言われているようで、
また、ゆっくり飛べばいいと思えました。
主に望みを置きつつ。