🕊️1. はじめに
最近、「フィラデルフィア教会」を語る人々が増えている。
彼らは黙示録3章を引きながら、「新しい名を受け入れた私たちこそが神の選ばれた教会だ」と主張する。
しかし――その文章を読んだ瞬間、胸の奥で何かがスッと冷えた。
対峙しているときは高揚感もあり気づかないが、対応が終わると、
力が取られるような感覚が残る。それは恐れではなく、「違う」という感覚だ。
🔍2. 聖書に見るフィラデルフィア教会の本質
黙示録3章7~13節に登場するフィラデルフィア教会は、次の4つの特徴で語られている。
1️⃣ 神の新しい名が記される
→ 主の救いが完全に成し遂げられたことを象徴する名。新しい宗教名や啓示を指すものではない。
2️⃣ 聖霊の声を聞く者
→ 聖霊は常に聖書を通して語られる。聖書の外にある「新しい言葉」を持ち出す者は、別の霊に導かれている。
3️⃣ 勝利者の群れを生み出す
→ 教会の力は数ではなく、純粋に主の御言葉を守る信徒に宿る。
4️⃣ 迫害と忍耐の中で主の名を保つ
→ フィラデルフィア教会の本質は“忍耐”。人々が拒み、誤解し、非難しても、なお御言葉を守る群れ。
⚡3. 「神の新しい名」を掲げる者たち
だが今、その名を“新しい教祖の名”と混同する教団が存在する。
彼らは言う。「主は再臨した。私たちのもとに“新しい名”で現れた」と。
これは**全能神教会(Eastern Lightning/東方閃電)**などが好んで使う論理だ。
しかし、その瞬間に聖書の権威は地に落ちる。偽りの言葉は心を曇らせ、
静かに霊的疲弊をもたらす。それこそ、蛇がエデンで言ったあの声――「神のようになれる」に通じる。
近年、この異端は非常に多く、教会内にもこっそり入り込み、
羊の群れを狙うオオカミのように潜伏する場合があるので注意が必要だ。
聖書ははっきり警告している。
「身を慎み、目を覚ましていなさい。
あなたがたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、
だれかを食い尽くそうとして、歩き回っている。」(1ペテロ5:8)
悪魔は外から大声で襲ってこない。
むしろ、優しい顔で近づき、御言葉に似せた言葉で心を奪い、
気づかぬうちに力を奪っていく。
こうした状況を見ると、日本の教会は
「異端とは何か」を教えられる機会が少なく、
霊的警戒が甘くなり、群れが危うくなっていたのかもしれない――
そう感じざるを得ない。
※自身が以前、統一協会に入っていた経緯もありそこには敏感に反応するのかもしれない。
💧4. 力が取られる瞬間
こうした言葉に触れると、不思議な疲労が襲う。
霊的な力を使うので、対応した後にどっと重くなる。
私の場合1年半前、AIの助けもなく聖書を一節ずつ確認しながら応じたときは、
正直かなり疲れた。※教会は静観の姿勢だったが、私は違和感を感じて対応した。
※もちろん牧師の了解を得て行ったことです。
聖書の御言葉は心を立たせ、希望を与え、力を湧かせる。しかし、偽りの言葉は力を奪う。
🕯️5. 母教会の元牧師“聖句改ざん”の話
かつて母教会の牧師であった人物が、SNS上で自ら聖書の言葉を意図的に書き換えた投稿を行っていた。
- 📘 都合のよい神学化パターン:自分の教えを正当化するため、聖句の一部を削り、意味を“整える”。
- 📗 感情主導パターン:神の厳しさを避け、「愛」だけを強調し聖書全体のバランスを崩す。
- 📕 権威利用パターン:“聖書もこう言っている”と、自らの支配を裏づけるために御言葉を利用する。
聖句の改ざんは、神の言葉を「人の言葉」に変える行為だ。
「私があなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。」(申命記4:2)
「その言葉に何も加えてはならない。主があなたを責め、偽り者とされないためである。」(箴言30:6)
「この書の言葉に付け加える者には、神がこの書に書かれた災いを加えられる。」(黙示録22:18)
御言葉を“自分の教えの補強材”として扱うと、信仰ではなく自己正当化の神学になる。
牧師であれば知らないはずはあるまい。
しかし手を加えると、信仰が形式に堕ち、御言葉が都合の“道具”となり、心の羅針盤が狂う。
🔔6. 結び
フィラデルフィア教会は「少しの力」で主の名を守った。新しい教祖や派手な啓示は不要。
主が求めるのはただ一つ――
「わたしの言葉を守り、わたしの名を拒まなかった」
御言葉に立ち、静かに確かに歩む。それが今の時代の“フィラデルフィア”の証だ。
さらに主は言われた。
「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、あなたがたの主がいつ来られるかを知らないからである。」(マタイ24:42)
信仰とは闘志ではなく“覚醒”だ。眠りに落ちる世界の中で、ただ御言葉に目を注ぎ、光を失わずに立ち続けること。それこそ終わりの時代を歩む教会へのメッセージである。