私は人間観察が好きで、初対面でもある程度は分かる方ですが、最近また新しい気づきがありました。
それは「謝罪を求める人」や「奢りという行為」に、人間性がよく表れるということです。
謝らせたがる人
やたら「謝罪、謝罪」と繰り返す人が残念なことにこの世には一定数います。
短期的には相手から謝罪を引き出して「勝った」と感じるかもしれません。
しかしそれは一瞬の優越感に過ぎません。
実際には、謝らされた側は「この人には本心を見せないでおこう」と思い、距離を取ります。
結果として信頼関係は壊れ、人を失うことになります。
つまり、謝らせたい人は「短期しか見えていない人」と言えるでしょう。
マウントを取りたがる人
謝罪を求める背景には「自分が上に立ちたい」という欲求があります。
謝罪を引き出すことで相手をコントロールしたいと考えるのです。
しかしそのような関係は長続きしません。
謝らされた側は心を閉ざし、信頼は失われるだけです。
”奢る”という行為について
奢りそのものはありがたいことですし、純粋な親切心や感謝の気持ちから出ている場合も多いです。
しかし中には、奢ることで「貸しを作ったつもり」になり、後からその関係を利用しようとする人も残念ながら一定数います。
一時的にはとても親切でも、時間が経つと「あれ?」と思う対応に変わる人もいました。
だから私は「奢りそのもの」ではなく、奢った後も態度が変わらないかどうかを人間性の判断ポイントにしています。
聖書の視点から
聖書にも、このテーマに通じる多くの知恵があります。
📖 箴言23:6-7
「ねたむ人のパンを食べるな。そのごちそうを欲しがるな。彼は心の中で計算している。『食べよ、飲めよ』と言っても、その心はあなたと共にない。」
👉 表面的に見える親切の裏に、打算や計算が潜むこともあると警告しています。
📖 ルカ6:34-35
「自分に返してもらおうとして貸すなら、あなたがたに何の恵みがあるでしょうか。…何も返してもらうことを望まずに貸しなさい。」
👉 本当の与える愛は、見返りを求めない心から出てくるものだと示しています。
しかし、こうも言っています。(今朝のディボーションで気づかされました)
📖 エペソ4:32
「互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
👉 たとえ打算的な人に出会ったとしても、最後には赦し合う姿勢を忘れてはいけないと語っています。
結論
結論としてはシンプルです。
👉 関わらないようにするのが吉。
人間性は「謝らせる」ことや「奢ること」そのものではなく、その後どう態度を保ち続けるかに表れます。
そして信頼を得る人は、謝罪を強要せず、奢りを利用せず、むしろ相手を思いやるものです。
私自身も「謝らせる側」や「奢りを利用する側」ではなく、「共に歩む側」でありたいと思います。
ポイント
あなたの周りにも、こういう「謝らせたがる人」「マウントを取りたがる人」「奢りを利用する人」はいませんか?
そのときにどう向き合うかが、私たちの人間性を映し出しているのだと思います。
そしてディボーションから学んだことは、たとえこういう人だとしても「許すこと」
許すことで、怒りからの解放が与えられ、
貴重な時間が守られるということを改めて学びました。