〜評価とタラントの本質について〜
初めに
ほんの少し前、僕は所属していたグループに一通のメッセージを送った。
ホームページのIDとPWを渡し、クリスマス礼拝用の更新を終え、
PPTも今日で一区切り──そのことを伝えて、そっとグループを離れた。
感情的な決断ではない。
ただ、僕の魂が静かに「ここではない」と示していたからだ。
意味の分からない祈祷課題。
本人の許可なく羅列される、他人の個人情報。
本人は良かれと思っていると思う。
時代は動いている。
それは、他者にどう映るのか。
そこまで思いをはせることができないのだろう。
○○依存症だ!プレッシャーに思っているはずだ!
時には本人から、時には関係者から。
そんなに思うならみんなの見える場所に出すのではなく、
別枠相談が良いと個人的には強く思う。
“釣り合わないくびき”を無理に背負い続けるのをやめた瞬間、
胸の奥でひっかかっていた小さな石が、ふっと軽くなった。
あれは、逃げではなく、解放だった。
頑張る方向とは指示するものが決める
新人や、業務のミスが多い人、何か言わないとその場に入れないHSP気質の人がよく使う言葉。
「頑張ります!」
その時、責任者がどう思っているかというと──
「みんな頑張っている」
それが本心であるのは分かる。
実際声が漏れる責任者も多々いる。
だが、その言葉だけでは到底すくいきれない“努力の深度”が確かに存在する。
今日、僕はひとつ明確な事実に気づいた。
自分の実力を正しく見抜けない人のもとでは、才能は発揮されない。
自身はクリスチャンとして、神の御心に従い最大限の力を出すことは当然だ。
だが現実の働きの場においては、「誰のもとで働くか」 がタラントを左右する。
その構造を、今日は痛烈に理解した。
ヒントはカナの婚礼が示す、“指示する者の質”
ヨハネ2章。
ぶどう酒が尽きたとき、マリアはしもべにこう告げた。
「あの方の言うことなら、何でもしなさい。」
この言葉を起点に、水はぶどう酒へと変わる。
しもべの働きは同じでも、従う相手が誰かで結果はまったく異なる。
タラントを活かすか、押しつぶすか。
その分岐点は、上に立つ者の“眼の質”にある。
私は、組織には最低限のマネジメントができること重要であると常々思っている。
そこができないと、いくら良いこと、良いことをしても、人は離れる。
自身の経験にも通じていた構図
僕には、“自ら辞めたわけではない会社”が2つある。
正式にはいずれも体調での退職になっているのが、面白い共通点だった。
どちらの職場も、僕の能力を「最大火力」として扱おうとせずに、他にも使おうとした。
たしかにできる。
人員不足もわかる。
結果も出せる。
しかし、それはタラントの正しい使い方ではなかった。
相性の悪い環境では、努力が逆流し、心が削られる。
そして、最大火力が発揮できない。
所属の組織内でも同じ現象が起きていた
2016年前後、僕が所属していた組織には、
タラントを適切に見抜くリーダーがいた。
Oご夫妻、Nご夫妻、故Mさん──。
適材適所が自然に機能し、全体がなめらかに動いていた。
しかし2017年4月、責任者が交代した。
その組織には引き継ぎの概念がほぼ存在しないように感じた。
タラントの理解、評価の軸、適材適所の視点──それらが徐々に崩れた。
組織の空気は変質し、僕には“悪い方向だけ”が残ったように見えた。
緩い環境、全員でやろう、適材でもないがやらせてみよう。
悪くないが、それは大規模組織ですることである。
所属組織は少数なのでできることが限られている。
確かに、一般企業で大企業に勤務していた時、
責任者によって方針が大きく変わることは多々あった。
また、プロ野球の世界のように、監督が変われば重宝される選手もいれば、干される選手もいる。
ただ企業の場合、結果が出なければ監督(責任者)は退任(交代)させられる。
しかし、僕が所属していた組織にはその循環が全く無かった。
結論:才能は「どこで」「誰のもとで」使うかで決まる
ここまでを言語化できずなかなか「モヤモヤ」していた。
壁打ちすれどすれど、なかなか本質にたどり着けなかった。
しかし、瞑想を入れ、聖句に照らし合わせ
DMAICで要因を深掘りし、HSPの感受性で照らしてみると、
これまでの違和感はすべて“正当なアラーム”だった。
才能は、正しく理解される場所でこそ解き放たれる。
外れた場所では、魂の力が静かに萎んでいく。
勘がいい方だ。
前回も完全カルト化の前にぬけた。
今回は、どうも組織自体がゆでガエル状態。
徐々に緩くなったので気づかずに緩くなった。
また責任者がマネジメントを拒否している感があり、
厳しいことを言わない。またそれを良しとしている環境もあった。
これから僕は──
魂が枯れない場所を選び、
タラントが正しく扱われる場所を選ぶ。
それこそが、与えられたタラントを生かしきる生き方だと確信している。
✦ 「釣り合わないくびき」という言葉について
補足として。
聖書の「釣り合わないくびき」(2コリ6:14)は、たまに「未信者との結婚はダメだ!」と勘違いする方がいるが、
ここは、クリスチャンに向けたメッセージ。
信仰と価値観が大きく異なる者同士が無理に同じ枠に入ろうとすると、
どちらかが傷つく──その警告として記されている。
これは単なる“合う・合わない”ではない。
魂の方向性、価値基準、使命の軸が揃わない状態で共に歩む危うさを示すもの。
今回僕が感じていた違和感と摩耗も、
この原則が静かに働いていた結果だったのだと思う。