祈る前に思わされていたのは「今は待て」だった
昨日のキャンドルサービスの礼拝後、
神の愛と許しについて深く考え、
今朝の黙想と祈りの時を持ちました。
祈った内容は、家族のことでした。
何かを変えたい、答えを引き出したい、というよりも、
主の十字架があらわされるように、
許しが必要なら実行できるように。
ただ今の状況と自分の心を、
そのまま差し出すような祈りでした。
振り返ってみると、祈る前から、
なぜか心のどこかで
「無理に進めず、今は待て」
と思わされていました。
日本人なので、ここは天岩戸のような感覚です。
無理にこじ開けず、
聖書的に言うと
「たたけ、そうすれば開けてもらえるであろう」
ということでした。
理由ははっきりせず、理屈もありません。
ただ、焦って動いてはいけない、という感覚だけがありました。
普段なら、何でも先に先に進めるタイプなので、
正直かなりモヤモヤもありましたが、
今回はそのお言葉に従いました。
とある教会の神学生が、
この日のキャンドルサービスのメッセンジャーでした。
そこは北の果て。
非常に慣れない環境で、
この冬、ひとり主日も経験なさったようです。
その神学生が語られていたのは、
神の愛と、許しについてのメッセージでした。
その言葉を聞きながら、
自分の内側で感じていた違和感や静けさと、
不思議なほど重なっていくのを感じました。
そして、祈ったあと、
家族に関する一つの件が、ほんの少し進展しました。
劇的な変化ではありません。
問題がすべて解決したわけでもありません。
けれど、
「止まってはいなかった」
と思える出来事でした。
そして、これはただの偶然だろうか?
と一瞬思いました。
否です。
クリスチャンに偶然はありません。
祈りに応えたもう主に、
ただ感謝しました。
そのとき、ようやく腑に落ちました。
そこに、主はおられました。

動かないことは、諦めではありません。
放置でも、逃げでもありません。
それは、
信頼して時を委ねる
という選択だったのだと思います。
主が沈黙しておられたのではなく、
靴屋のマルチンのように、
主がどこにおられるのか、
私のアンテナが、
少しずつ合わされていただけでした。
気づく準備が、
ようやく整っただけだったのだと思います。
今は待つ時。
そう受け取れたこと自体が、
すでに祈りへの確かな応答だったのだと、
今は静かに感謝しています。
感謝の証を共有したかったので、
書いてみました。
メリークリスマス🎄
